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2月28日聖日礼拝

 2010-02-26
「聖 書」
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語りあっていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 
(ルカによる福音書 9章28~36節)

説 教 「栄光」
 私達は今「四旬節」(レント)の時を過ごしていますが、この時は勿論、主の「受難」を思い起こしながら、悔い改めと克己と節制の日々を送る時です。しかし、「四旬節」で読まれる聖書は、神の「救いの歴史」を語るものも読まれます。つまり、「四旬節」の時に聴く「御言葉」の意味は、主の「受難」を「救いの歴史」として、しっかり受け取りながら、「受難」を真実に悟るようにと導かれています。
 本日読まれた「御言葉」は、「主の変容」です。イエス様は弟子達の前で光り輝く姿をお見せになられました。これは「変容」ではなく、「神の子」の真実な姿を垣間見せた場面と解する方が正しいでしょう。イエス様はモーセとエリヤと語っておられました。その時に、イエス様は光輝いておられたのです。その語られていた中身は、「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」でした。「最期のこと」とは何か。それは勿論「十字架の死」のことです。モーセは律法を、エリヤは預言者を代表する人物です。ですから二人は「律法と預言者」であり、それは「旧約聖書全体」を指す表現です。つまりイエス様がモーセとエリヤと共に語っておられたことは、「神の御思い」であり、「神の救いの計画」であり、「預言の成就」のことでありました。その話の中身が「十字架の死」のことであったのです。その「受難」(十字架の死)の会話を祈りつつしている時にイエス様は光り輝く「栄光」の姿をお見せになられたのです。
 この事実を知る時、「イエス様は神の子であるにもかかわらず十字架につかれたというわけではなく、神の子であるがゆえに十字架につかれた」ということを悟ることができます。ですから、イエス様の「受難」は、「福音」の真理を示しているのです。イエス様の「変容」は、弟子達へ「受難予告」を為した後の出来事です。これは神の配慮でありましょう。「受難」の意味を理解することができない弟子達に向けて、「受難」を通して与えられる「福音」を、神の「栄光」という姿を通して、「神の国」を垣間見せたのですから。弟子達は、イエス様の死後、常に復活の主に出会い続け、この時の主の「栄光」の姿を思い起こしながら、「復活」の希望(主の栄光ある体と同じ形)に生きる者であり続けたのです。

2月21日聖日礼拝

 2010-02-16
「聖 書」
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』」と書いてある」とお答えになった。
(ルカによる福音書 4章1~13節)

説 教 「試み」
 本日語られる、悪魔からの「誘惑」と主を「試みる」という言葉は、同じ原語が使われています。「ペイラゾー」という言葉です。この言葉は、神が私達を「試みる」という時に用いられる場合は、「経験を与える」や「訓練する」という意味です。又、人が神を「試みる」という時には、「不信と疑い」を指して使われる表現として用います。
 イエス様は宣教を開始される前に、荒れ野で悪魔から「誘惑」を受けられました。それは、三つの「誘惑」です。その三つは①肉体的(食物)②霊的(悪魔)③知的(名誉)というものでした。私達が「神の言葉」を受け入れ、霊的な命の人生を歩み始めても、この三つの「誘惑」は、私達に訪れてきます。イエス様はその「誘惑」を聖霊の満たしによって、退かれました。イエス様が、この「誘惑」を受けられたその意味は私達の救いの為でした。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:18)それでは、信仰者に訪れる「試み」や「苦難」には、どのような意味があるのでしょうか。それは「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」(ヤコブ1:12)と記されています。
 つまりイエス様は、「荒れ野の四十日間」を通して、私達「信仰者」に、私達が持つ「誘惑」や「欲望」「罪」に対して、どのように向かい合い、どのような「勝利」があるのかということを示されたのです。イエス様が肉体的な誘惑に遭われた時に、「人はパンだけで生きるものではない」と言われました。これは申命記8:3の引用です。この意味は私達に飢えが訪れようとも、神が天から「マナ」を与えられるので、信仰に立ち、安心して神に信頼せよということです。
 私達には必ず「誘惑」と「苦難」がやってきます。しかし、そんな時こそ神の支えと導きに信頼を置き、神を「試みる」(不信)ことがあってはなりません。そのような時こそ、神の「試み」の時(人が神の愛を体で知り、「神の言葉」によって生きることを体験する時)と覚え、「神の言葉」にしっかりと立ち続け、「勝利」を得る者でありたいと願います。

2月14日聖日礼拝

 2010-02-10
「聖 書」
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。」
(ルカによる福音書 6章20~26節)

説 教 「永遠]
 本日の御言葉は、イエス様が弟子達に目を注ぎながら語った言葉です。つまり「聞く耳のない者」ではなく、イエス様に「神の言葉」があると信じた弟子達に向けて語られた言葉であるということです。「神の言葉」を信じるということはどういうことなのか、「神の言葉」を信じることによって、何が示されていくのかということをイエス様は弟子達に向けて語られました。ですから、この言葉は「理念化」された言葉です。
 本日の御言葉を読むと「幸いと不幸」が語られています。これを読むと恰も「幸いな人」と「不幸な人」という対立した人があるように思いますが、それは違います。ここで語られる意味は、「(弟子)一人の人生」の中に「貧しい、飢えている、泣いている、憎まれる、人の子のために汚名を着せられる、又、富んでいる、満腹している、笑っている、ほめられる」ときがあるであろうと、イエス様は語られているのです。その時に、あなたがたはいつも「永遠」の方に目を向け、「祝福」の方を選びなさいと弟子達に向けて語られた言葉が、本日の御言葉です。
 そこで本日の御言葉を読み解くのに、示しが与えられる御言葉があります。エレミヤ書17章の「呪われよと祝福されよ」です。この御言葉の中に、「祝福されよ、主に信頼する人は。彼は水のほとりに植えられた木。干ばつの年にも憂いがなく実を結ぶことをやめない。」というものがあります。「神の言葉」に出会い、主に信頼をする人生を始めても「干ばつ」の時はあると語っています。しかし、その時にも根に水(永遠の命)が送り続けられるので、「実を結ぶことをやめない」と語っているのです。
 私達、弟子の人生にも当然「貧しさ、悲しみ、痛み」があり続けます。しかし、その時こそ主は「幸いである」と語られます。その時にこそ、主に祈りを捧げるであろう。そして、主が自分を支え続けていて下さることを知るであろう。その「永遠の命」の中にあることこそが、真実な「幸い」(祝福)なのであると主は語られたのです。続く「不幸」(呪い)は(オーアイ)です。原意は「回心」を勧める言葉です。主が語られた真の「幸い」とは、逆境の時も順風の時も「神の言葉」に留まり続けて、「永遠」の恵みを受け取り続けていくことであるということなのです。

2月7日聖日礼拝

 2010-02-03
「聖 書」
これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あたたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
(ルカによる福音書 5章1~11節)


説 教 「恵み]
 本日は「礼拝」の「恵み」について、御言葉より聴きたいと願います。
 本日の聖書の中で、ペトロが言います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」この言葉には、大切な意味が込められています。まず「主よ」という呼びかけです。この呼びかけは神的なものに対するものです。そして続けて、ペトロが言います。「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」この言葉は、聖なる神に対するものです。ですから、これらのペトロの言葉の全てに、ペトロがイエス様に対して、神的な力を感じ取り、イエス様の前にひれ伏した彼の心情を読み取ることができます。ペトロはどうしてこのようなことを言ったのでしょう。そのことが本日最も聴きたいことです。
本日の御言葉は「「神の言葉」を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」というところから始まっています。イエス様は群衆に「神の言葉」を語られました。そこでペトロも同じく聞いていました。実を言いますと、本日の御言葉は、1-3節に記された群衆と4節以降に記されたペトロ達との対比が記されています。その対比とは何かと言いますと、「神の言葉」を「神の言葉」として、受け入れたか、否かということです。ペトロも初めは、群衆の一人として聞いていました。ペトロは、イエス様に対して初め「先生」と呼んでいました。その彼が「主よ」に変化します。この変化の体験が、とても大切なのです。
 イエス様はペトロの船に乗り込み「網を打て」と言われます。ペトロは漁のプロです。イエス様の言葉に疑いを持っていたでしょう。しかし、「お言葉ですから」と言って、イエス様の言葉に従うのです。すると、大量の魚が獲れました。ペトロは大いなる畏れを感じます。そして前述の言葉を語ったのです。ペトロは自分自身に依り頼んでいた自信がここで崩れています。このことは真実な神に出会い、「神から離れ、一人でも生きられる自信(罪人)」を持っていたことが崩れたことをも意味しています。ペトロはイエス様の「神の言葉」を永遠の命として出会ってから、劇的に人生が変わりました。礼拝の「恵み」とは、イエス様の臨在と「神の言葉」を通して、「永遠の命」に触れていくことに他なりません。
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