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8月21日聖日礼拝

 2022-08-16
「聖 書」
肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
(ヘブライ人への手紙 12章5~13節)

「まっすぐな道を歩く」
先週の説教題は「自分に定められている道」でした。キリスト者の道は己の足で歩んで行くものです。(12:13)「自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」の通りです。しかし、この言葉は先に「足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように」とあります。私共キリスト者の歩む道は「弱い人」「小さい人」の為にあると言う意味です。これは如何なる意か。このことは以前の説教でも語りました。(2019.8.25)13節の御言葉を直訳すると「自分の足でまっすぐな轍を作りなさい」であると語りました。「轍」は車輪の跡で、道に跡(轍)が出来ると荷車が通りやすいのです。この意味を踏まえて、私共には先達が作られた「道」があると解き明かししました。そして、バックストン師の祖父トーマスは「奴隷解放の道」を作った一人であり、孫のバックストン師は、その祖父の作った「愛の道」を歩んで行かれたとも語りました。私共は、そのような大きな道を歩む者ではないと言われるでしょうか。私共キリスト者一人一人に「定められた道」はキリストが共におられる「大いなる道」(天国)です。私共には務めがあるのです。本教会は以前は「小さい人」が多く集う教会でした。「愛の共同体」でした。教会の一人一人が作る「愛の道」があったので、教会に入りやすく、歩みやすかったのです。今の本教会には「道」がありますか。教会は危機を迎えていないでしょうか。私は御言葉を通して、本教会の道を語りたく願っています。本日の御言葉は「主による鍛錬」です。「鍛錬」は(パイディア)で、「子」(パイス)の派生語であると以前に語りました。私共は「神の神性(キリストのようになる)」にあずかる目的で、主の鍛錬を受けるのです。私共の「義化」(罪が赦される)は神の恵みで、私共の功はありません。しかし「聖化」は己の努力と訓練が必要なのです。神は私共を「子」として扱っておられます。この鍛錬は忍耐が必要ですが、忍耐は(ヒュポモネー)で「希望」とも訳します。この忍耐は「義という平和に満ちた実を結ぶ」希望に繋がっているのです。天国の住人の幸いを失うことのない希望です。主の鍛錬という忍耐は罪から離れさせ、「聖なる生活」を送らせ、「小さい人」が通ることが出来る「愛の道」となるのです。教会に来て「神を見る人」が増えていくのです。私も又、先達の作られた道を行き、「愛の道(轍)」を作る一人にされたいと願います。共に参りましょう。


8月14日聖日礼拝

 2022-08-09
「聖 書」
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
 (ヘブライ人への手紙 12章1~4節)

「自分に定められている道」
本日は教会の根底を支えるものの話を致します。私は長い間、がんばってきたクリスチャンでした。私には自己義認が必要だったのです。がんばることが認められること、愛されることの条件であると思っていたのです。私は「ありのまま」の自分を否定していました。私はクリスチャンとして生きるようになっても「罪人」でした。先週お語りしたように、神は私共に「天国を与える」ことを喜びとされる方です。私は天国の住人とされた後も、「天国の喜び」に満たされることのない生活を送り、神に悲しい思いをさせ続けていました。皆さんはどうでしょう。天国の喜びで満たされていますか。もし天の喜びを失っているとしたら、それは罪の結果です。悪に支配されている結果です。神はキリストを世に送られ、キリストの福音を信じる者に、神との関係の回復「平和」を与えられました。私共には罪に勝利する道が備えられました。このことが確実なことは、本日の御言葉が証ししています。「こういうわけで、わたしたちも証人の群れに囲まれている以上、罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こう」この意味は前節のものを受けたものです。前節部には「信仰者の生涯」が記されています。彼らは信仰のゆえに神に認められた者であったが「約束されたもの」を手にすることはできなかったとあります。「約束されたもの」とは「天国の現在性」です。ですから先ほどの御言葉は、私共が信仰者の道を忍耐強く歩む時に「天国の喜びはある」の意味が込められています。私共には「天国の現在性」が用意されています。しかし、それは隠遁生活ではありません。世の戦い、罪との戦いもある中でのものです。「競争」は(アゴーン)で、「競技、戦い、苦闘」を意味します。私は説教題に「競争」を「道」と致しました。次週の「まっすぐな道」(仲村堪師、シラ書2章、箴言3章)にも掛けています。この「道」は「自分に定められている戦い」なのです。しかし、この「戦い」は天国を「完全な状態にする」ものです。感謝の道です。私共は一人ではありません。おびただしい証人がいます。兄弟姉妹がいます。主が共におられます。本日の週報を御覧下さい。(Run With Patience)Patienceは忍耐です。原文は(ヒュポモネー)で「下に留まる」の意です。主は私共を愛し、今も私共の下に留まり私共の根底を支え続けて下さっています。主は今も私共の罪と共に戦っておられます。

8月7日聖日礼拝

 2022-08-03
「聖 書」
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
(ルカによる福音書 12章32~48節)

「忠実で賢い管理人」
本日の御言葉は、「小さな群れよ」という主の言葉から始まります。「群れ」(ポイムニオン)は「羊の群れ」のことです。先週の御言葉にて、お語りした如くに、主は「羊飼い」、私共は「羊の群れ」です。本日の御言葉は、私共(主の弟子)に語られた御言葉です。その冒頭にて主は、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」とあります。本日の御言葉の「要」となる文章です。以前の口語訳では、「御国を下さることは、あなたがたの父の御心なのである。」とありました。父の「喜び」(ユードキオー)を「御心」と訳したのです。これは妥当な訳で、「御心に適う人」のことを(ユードキアス)と言い、「(神の幸いに)満たされる人」「神から喜ばれる人」という意です。ですから、この文章の意味は、「私共が教会で聖霊に満たされる喜び(天国)を持ち続けることが神の喜び(満たし)である」という解釈になります。これは大切な真実です。主イエスは私共に「御言葉」を与えられました。その「御言葉」は主イエスを信じる信仰によりて、「宝」となります。この「宝」は、私共を「神の国の中にある喜び(富)」にて満たします。私共の持ち物を売り払って施しを為してもなお、「おつり(尽きることのない富)」が来る「富」です。この「富」は決して失ってはならないものです。失うことは神の悲しみとなります。この富を失わない方法はあるのでしょうか。主は語られました。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」と。主は、この後に「四つの譬」を語られました。初めの譬は(35-40)です。コンチェントリックの技法が用いられています。その中心の言葉は「そばに来て」(パレルコーマイ)です。「神顕現」を表す言葉です。この文章は「未来形」で書かれています。主は「終末の宴」(イザヤ25章)(帯を締めて僕に給仕をする主人(神))を語られたのです。ペトロの問いに返して主は、更に続けて、弟子が「目を覚ましている」大切さを語られました。「腰に帯を締めて、ともし火をともす」これは先週に語りました「飼い主わが主の姿」です。「互いに仕え合う」「互いに愛し合う」「造り主の姿に倣う」本日の資料の「主の洗足」の姿です。私共は「御言葉(天国)の管理人」です。全ての人に公平に「御言葉(天国)」を分けていく「忠実で賢い管理人」として生きていく責任があります。私共は与えられた御言葉(天国)に忠実に歩んで参りましょう。互いに仕え合い、キリストの喜びを灯しましょう。

7月31日聖日礼拝

 2022-07-27
「聖 書」
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたもキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。…古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
(コロサイの信徒への手紙 3章1~11節)

「造り主の姿に倣う」
コロサイ書の結びです。パウロ先生は手紙を結ぶにあたり、キリストの体である「教会」を完成させる「きずな(帯)」(3:14)についてコロサイの信徒の人々に伝えました。先週、私は「私共が教会である」「私共は教会の節と節、筋と筋である」そして、「(教会の)頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」(2:19)と語り、私共は節と節、筋と筋であり「教会を支える者」であると語りました。私共は如何にして教会を支える者となるのでしょうか。御言葉に聴いて参りましょう。本日の御言葉は「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」と語ります。私共キリスト者に「造り主に倣え」とパウロ先生は告げます。それは如何なることであり、それは可能なことなのでしょうか。私は以前に同じ御言葉で、「上にあるものを求めよ」の説教題で解き明かしをしました。(2019.8.4参照)コロサイの教会の危機を踏まえて、「傲慢」と「欺瞞」を捨て去り、「神を神とする信仰」(自分が下であり、上である神に聴く信仰)に立ち帰るようにと語り、私共の教会の現状に適用しました。あれから3年経ちました。私共の教会も成長させていただきました。本日の御言葉は今の私共への適用です。「上にあるものを求めなさい」に続く、(3:2)の直訳は「あなたがたは上にあるものに心を向けよ。地上のものにではなくて。」です。意訳で「心を引かれないようにしなさい。」は加えられています。しかし、この意訳は誤訳です。御言葉に対する甘さがあります。続けて語られる御言葉(3:5)「貪欲は偶像礼拝にほかならない。」は「己が腹を神とする偶像礼拝」という意味が込められていることからも確かです。私共は「古い人」(地上の肢体)を、その行いと共に脱ぎ捨て、「造り主の姿に倣う新しい人」を身に着ける必要があります。「造り主の姿」とは週報に掲載された「飼い主わが主」の姿のことです。主は教会が「キリストの体」として完成するように、私共を見守り、養い、「教会の頭」で居続けて下さっています。主は「隅の要石(キーストーン)」です。主は全部の「石」を「一つにする」(シナーモロゲオー)「頭石(要石)」です。教会を完成させる「きずな(帯)シンデスモス」は愛です。シンは「共に」です。デスモスは「手枷」です。主は私の「軛」は負いやすいとも言われました。私共は造り主の愛の姿に倣い、「真の教会」を目指し「一つ」とされます。

7月24日聖日礼拝

 2022-07-19
「聖 書」
洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けして取り除いてくださいました。
(コロサイの信徒への手紙 2章12~14節)

「キリストと共に」
先週の祈祷会にて、マタイ書の「「種を蒔く人」のたとえ」から学ぶ機会が与えられました。このたとえの結びに、良い土地に落ちた種は実を結んで、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」と記しています。底本はマルコ書です。マルコ書では良い土地に落ちた種は育ち、実を結び、「あるものは三十倍、六十倍、百倍にもなった。」とあります。何故、マタイは増加の書き方の方が勢いがあるにも拘わらず、減少の書き方に変えたのでしょうか。それは、たとえを聞く弟子達が不安(自分はどこに落ちた種か)になることを知りつつ、そのような小さな者であると自覚のある弟子達に、主が「あなたがたは見ているから幸いだ」と語り、弟子達の小ささの上に働く「神の恵みの幸い」を語る為に、「種の実り」は、どれも「神の恵み=幸い」であることを語りたかったからであると思うと解き明かしを致しました。自分の小ささを思う者は「神の御言葉」を受け入れている者です。私は以前、教会生活を長く続けられる者、人生の最期まで信仰生活を続けられる人は「謙遜な人」(小さき者)であると証ししたことがあります。「小さき者」は御言葉を受け入れ、その自分の「行動」を顧みる者です。信仰を顧みる者であるから「不安」を持つのです。本書のコロサイは逆に「哲学」によって誤りの自信を持っていたのです。以前、私は同じ御言葉を通して(2019.7.28参照)、教会には二つの危機があると申し上げました。内側から来る「傲慢」と外側から来る「欺瞞」です。神は私共を「まことのキリストの体」に造り上げるために今も、「愛の充満」を注ぎ続けておられます。私共は神の力を信じて「洗礼」を受けました。私は死にました。私は「キリストと共に復活」させられたのです。私共の頭はキリストです。私共は「献身」(活水「献身の真の意味」別紙)すれば良いのです。私共はしっかりと頭であるキリストに付き、頭の働きに身を委ね、節と節、筋と筋である兄弟姉妹としっかりと結び合わされ、「教会」を神の愛によりて支えるのです。(神の恵み=幸いです。アーメン)私共は「神に育てられ、「愛の共同体」へと成長させてもらえるのです。」(2:19)私共の小ささは関係ありません。福音の「種」さえ持っていれば、成長(愛)は神が育て成し遂げられます。私共にとって最も大切なことは「キリストと共に」永遠の命の世界を生きることです。赦しの中を共に歩んで参ります。

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