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3月3日聖日礼拝

 2024-02-26
「聖 書」
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それで、ユダヤ人たちは、「この神殿を建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
 (ヨハネによる福音書 2章13~25節)

説 教 「三日で建て直して見せる」
本日の御言葉の小見出しには、「神殿から商人を追い出す」「イエスは人間の心を知っておられる」となっています。「宮きよめ」ではありません。週報を御覧下さい。「宮きよめ」の挿絵と共に「宮きよめ=魂のきよめ」と記しました。本日の御言葉に深く関わる言葉です。本日の御言葉の聴くべき中心は何でしょう。それは「しるし」です。「キリストの体」(ソーマ クリスティ)です。本日の物語は四福音書の全てに記されました。ヨハネ書だけは他の福音書と違う位置に置きました。ヨハネは「最初のしるし」の「カナの婚礼」の後に「宮きよめ」を置いたのです。この意味は「宮きよめ」を「しるし」として語るという意図がヨハネにあったからです。ヨハネは「カナの婚礼」の物語を「終末の宴」の「しるし」として描き、そして続いて「宮きよめ」の物語を「救いの完成を告げる新たな時代(キリストの体)」の「しるし」として、強調したのです。主イエスは神殿の境内に入られ、「家」(オイコス)が商売の家にされているのを見て、商人を追い出されました。主の「家を思う熱意が」そうさせたのです。(2021.3.7参照)ユダヤ人たちは主に、「こんなことをするからには、どんなしるしを見せるつもりか」と詰めました。主は答えて、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われました。主の「壊してみよ(ルオー)」は(アオリスト能動命令)で「壊してきた。これからも壊し続けよ。」の意味です。主が言われていることは、あなたがたは「まことの神殿」を壊し続けてきたのだという糾弾です。主が本日神殿で為されたことは何でしょう。燔祭にする牛や羊を追い出し、金をまき散らし、商売人をも外に出そうとしました。これは「しるし」です。先週、私共はアブラハムの「イサクの奉献」の御言葉に聴きました。主に「私を献げる」大切さの迫りを受けたのです。本日の迫りは、私という「宮」から、偽物の犠牲、欲望の金、自我という商売人を追い出せというものです。主イエスは今、御自分の命を賭けて迫って下さっています。主は「私共の心の中を全て知っておられ」ます。主は私共が本当に「きよめ」られる為に命を捨てられました。主は、「この神殿」と言われました。主御自身のことです。主は私が壊されても、「三日で建て直してみせる」といわれました。この「建て直す」(エゲイロー)は「復活」と同じ言葉であり、神的受動形です。私を壊しても「神が起こす」と言われたのです。私共は神の宮です。(一コリ6:20)聖めを受けましょう。

2月25日聖日礼拝

 2024-02-20
「聖書」
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。
神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、 神は命じられた。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。…
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、 御使いは言った。
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」…
(創世記 22章1~18節)

説 教 「アブラハムを試された」
本日は「イサクの奉献」です。本日の物語はアブラハムは「神に対する信仰によって救いを得る全ての者」の「予型」であり、イサクは「キリスト」の「予型」を示すものであると言われてきました。旧約聖書中、最も美しく、最も感動的な物語であるとも言われます。皆様は、どのように受け取られるでしょうか。アブラハムは「信仰の父」です。本日の御言葉は私の信仰とはかけ離れていると思われるでしょうか。本日は、御言葉を通して信仰と神の恩寵について悟りを得たいと願います。今、本教会は財政的な危機を迎えています。主は牧師である私に金銭的に収入を得る為に、「働くな」と言われます。神懸かりを信じて、待てと言うことなのでしょうか。それは違います。主は、私の心の中を探っておられるのです。本日のアブラハムは最愛の息子である独り子を何故、奉献できたのでしょうか。イサクは神から与えられた「約束の子」なのです。御言葉は語ります。「神はアブラハムを試された。」本日の御言葉は「信仰の試練」なのです。アブラハムは心の中を探られたのです。私共の前には「神の摂理」があります。その「摂理」の表面に見えるものには「矛盾・不合理・不条理・苦しみ・困難・痛み」などもあります。私共は常に「信仰の試練」を前にしています。私共は、どのようにして信仰の生涯を乗り越えて行けば良いのでしょうか。それは従うことです。「摂理」(プロビデンス)の原型は「主の山に、備えあり(イエラエ)」であります。私共が、自己中心(イサクやサラも自分自身)に死ぬことを通して、神の声に聴き従うことを通して、「祝福」は訪れます。本日の御言葉は、その祝福の基を語っているのです。本日の御言葉は語ります。「これらのことの後で」神から祝福を受け続け、問題は解決をし、という順風満帆の時の「後で」という意味です。本日語られた「燔祭」は(オーラー)で「上げる」の意です。生贄を焼き尽くし、煙を上げ、神に全てを捧げる思いを届けて、神に喜んでいただくのです。しかし神が本当に喜ばれることは、「あなた自身を献げる」ことです。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心」なのです。(詩51:19)私を献げましょう。神は独り子を献げられました。私共を救う為に神は「痛みを経験され」ました。その「神の痛み」ゆえに、私共キリストを信じる者は救われます。ここに神の恩寵があります。神は、待っておられます。あなたが信仰の従順によって祝福を受けられることを。

2月18日聖日礼拝

 2024-02-13
「聖 書」
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕われていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは天に上って神の右におられます。    
(ペトロの手紙一 3章18~22節)

説 教 「正しい良心を願い求める」
「四旬節」に入りました。来る3月31日(日)の「イースター」までの6週をキリストの受難を共にしつつ、私共が神から与えられている「命の根源性」=「闇の中から光の中へと招かれる」(2:9)に向き合いましょう。今年も又、聖金曜日(受難日)に「消火礼拝」を執り行います。共に礼拝の恵みに与りましょう。さて本日の御言葉は、今年度の5月に解き明かしをしたものです。(2023.5.14)基本となる解き明かしは、以前のものを御覧下さい。本日の説き明かしは「洗礼」を中心に語ります。「四旬節」の期間は伝統的に洗礼準備の為に用いられました。今年の「イースター」では、多くの方が洗礼を受けられることを願います。また洗礼を既に受けられている方も、この時を同じ思いで過ごし、学びの期間とすることは、自らの信仰を振り返る良い時となることでしょう。主イエスは「私共の罪」のために、ただ一度苦しみを受けられ、死に渡されました。この苦しみは、「神から離れた永遠の死」の苦しみです。主が十字架に架かられたのは「正しい良心」のためです。罪人である私共を「神のもとへ導くため」です。「正しい良心」を直訳すると、「幸福な意識」となります。意訳すると「神と向き合う幸福な意識」となるでしょう。主は正しい方でありました。ですから父なる神の愛の使命を自ら全うされたのです。その自己犠牲の愛を神は良しとされました。それゆえ神は主イエスを復活させられました。これは死への勝利宣言です。キリストは一度死なれ、陰府に下られ、捕らわれていた霊たちに向けて「勝利宣言」をしたとペトロは信仰告白をしています。ペトロは「ノアの出来事」を通して「洗礼」を語ります。「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」(3:21)私共は「洗礼」を受けても罪人のままです。肉の自分であることは変わりません。しかし、「霊の出発」であることは間違いありません。洗礼を通して「新生」が始まります。「塵」に過ぎない者が「霊では生きる者」とされるのです。「洗礼」で何が変わるのでしょう。「神に正しい良心を願い求める」ことができるようになります。これは前述したように、洗礼の恵みに与った者は、神に「神に向き合う魂」「神との応答の祈り」「神と向き合う幸福な意識」を願い求めることが可能となるのです。主イエスを信じる信仰が「霊では生きる者」(復活の命の者)に自分を変えたからです。私共は常に「闇から光へと」招かれているのです。

2月11日聖日礼拝

 2024-02-06
「聖 書」

神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は、苦しんで子を産む。
お前は男を求め
彼はお前を支配する。」
神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。」

(創世記 3章16~19節)

説 教 「塵に返る」
本日は「原罪」と「いのちの根源性」について御言葉に聴きます。次週から「四旬節」に入ります。「十字架の死と復活」の時に向かって、自らの命の根源に向き合います。人は「霊的な存在」と言われます。何故でしょうか。それは人が神の霊を吹き入れられた結果、「生きる者となった」と言われる存在だからです。(創2:7)我々が神から離れる時、私達の霊は死んでいる状態です。これが「原罪」です。(3:10)しかし、神は人の自己中心ゆえに死に向かう私共の為に「原福音」を用意されました。(3:15)イエス・キリストです。私共は世にあって苦しんでいます。その「苦しみ」(アーツァブ)が本日の御言葉に記されています。この「苦しみ」は単なる肉の苦しみではなく、神の神秘の苦しみです。本来ならば、「出産」も「労働」も祝福です。にも拘わらずに、人が神から離れて生きる時、目的を見失い、的を外す故の苦しみを生きます。しかし女が神に立ち帰る時、出産は喜びです。男が神に立ち帰る時、労働は喜びなのです。私達は神に創造された被造物です。私達を構成しているものは物質(塵)です。物質には意思はありません。しかし私達には、「意識、感情、情熱、創造性、良心」(意志)があります。神の霊が吹き入れられているからです。しかし、その意思を自己中心(自由意志の誤用)に用いるなら、神との関係を自ら断つこととなり、私達は「死ぬ者」となります。つまり私達に霊がなければ、「塵」は「塵に返る」だけです。本日の御言葉の後節に、神が、「堕罪」に陥った二人に「原福音」を与えるだけではなく、「皮の衣を着せられた」(3:21)と記し、命の保持の恩寵が描かれています。また、この御言葉は、血による「贖い」をも示しています。旧約聖書はヨシヤ王の宗教改革の時に編纂事業が行われました。申命記史家らは創世記の「堕罪物語」を自らの「ヤハゥエ礼拝の堕落」と重ねました。「失楽園」は「約束の地からの追放」と重ねたでしょう。神は私達に「自由意志」を与えられました。強制ではない、自由意志による「愛の交わり」に入れる為です。まことの「永遠の喜びの交わり」を互いに生きるためです。私達は立ち帰りましょう。私達の苦しみの根源を見つめましょう。「塵」に意思はありません。私達はただの「塵」ではないので、「神秘の苦しみ」があるのです。私達に与えられている苦しみは、神に立ち帰るための「試練」です。私共は罪を悔い改め、神に立ち帰り、永遠の命を共に生きましょう。

2月4日聖日礼拝

 2024-01-30
「聖 書」
もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
(コリントの信徒への手紙一 9章16~23節)

説 教 「わたしの報酬」
私共は福音の中を生きています。神様に感謝をしましょう。主の救いに与り、福音に生きている者は「神の言葉を授かり」ます。世界に「神の支配(天国)」が広がりゆくためです。本日の御言葉の如くに、パウロ先生も又、神の言葉を授かり、福音に生きられました。福音に生きられたパウロ先生は18節において、「わたしの報酬とは何でしょう。」と言われています。福音を語ったゆえの報酬です。先生の答えは、「権利の放棄」でした。この意味は、何を語っているのでしょうか。ここに語られた「権利」(エクソシア)は、9章の冒頭に記された「使徒の権利」のことです。この「権利」は金銭を得ることだけを語るものではなく、「権威」や「支配」を意味する言葉です。パウロ先生の語る「権利の放棄」は、使徒としての権威の笠を着ないという意味です。そして、それが自分が福音を語る「報酬」(ミスソス)であると言われました。先生は「使徒の権威」を持っているにも関わらず、放棄しています。いえ、放棄しているように見えるのです。そんな笠を用いなくとも、福音は燎原の火の如くに燃え広がりゆきます。ここに語られている意味は、非常に大切なものです。先生は続く後節において、(9:23)「福音のためなら、どんなことでもします。」と語られ、その福音のために為されたことは、「すべての人に対してすべてのものになりました」であると述べられています。すべての人に対して「すべてのものになる」とは如何なることか。ここで用いられた「~になる」は(エゲノメエン)で、(フィリピ2:7)「(主は)神の身分でありながら、人間と同じ者になられた」の「なられた」と同じ言葉、同じ意味です。神は人に「共喜共泣」((ローマ12:15)されます。「インマヌエル」とは、そういう意味なのです。具体的に語りましょう。あるハンセン氏病院に、若い牧師が訪問しました。心の中には恐れがありました。そのことは心の中に押し留めながら礼拝の時間が来ました。皆が次々と集まってきました。集まる人々の病の姿を見て、緊張しました。そこに一人の老女性宣教師が一人のハンセン氏病の方の体を抱きかかえながら、にこやかに微笑みつつ、その方と共に、席に着きました。若い牧師は自分に恥じ入ると共に、まことの生きた信仰に出会ったことに感謝しました。この宣教師の報酬とは何でしょうか。報酬は神御自身です。神が私と今、共におられるという喜びです。パウロ先生も又、同じです。権利を放棄してなお「満ちあふれる神共におられる喜び」です。
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