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8月18日聖日礼拝

 2019-08-17
「聖 書」
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
(ヘブライの信徒への手紙 12章1~4節)

説 教 「喜びを捨て」
本日の短い御言葉には「信仰の奥義」が語られています。先週の御言葉に聴きました如くに、私共キリスト者には、多くの信仰の先達がおられます。私共は何を先達から学べば良いのでしょうか。本日の御言葉は語ります。「主イエスの信仰に倣え」と。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(12:2)と記されてある通りです。求道者が教会に来るのは何故でしょうか。それは、そこに「まことの神」がおられるからです。「まことの信仰」を見ることができるからです。前章に記されてあった信仰の偉人達は「信仰のゆえ」に神に認められました。今を生きる私共も又、信仰の「証し人」として生きています。私共も「信仰の深み」を目指してまいります。さて私共の模範であるイエス様は、どのように信仰に生きたのでしょうか。本日の御言葉を御覧下さい。「このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、十字架の死を耐え忍んだ。」(12:2)とあります。以前の口語訳では、「喜びのゆえに」でした。岩波訳も同じですが、(註)に「喜びという代償があったので」とあります。イエス様は「喜びを捨て」たのでしょうか。「喜びがある」ので十字架を耐え忍べたのでしょうか。そもそも、イエス様の「喜び」とは何なのでしょうか。御言葉を読み解く為には「原語」に当たらなくてはなりません。牧師の務めの中に釈義があります。本文批評から始め、翻訳作業に入ります。この「翻訳」には基礎的な知識と共に「信仰理解」が求められます。例えば洗礼者ヨハネの言葉を、原語に忠実に訳すと、「主の道を(直ちに)(不定過去:アオリスト)備えよ。主の歩まれる道を真っ直ぐに(し続け)(現在形)よ。」となります。では本日の御言葉ではどうでしょうか。「(そこに)ある」という言葉は、「現能欠属女単」です。これを直訳するならば、「(そこに)彼の喜びが(あり続ける)ので、(その喜びを捨て)十字架の死を耐え忍んだ。」となります。イエス様の喜びとは何でしょうか。それは勿論、「神との交わり」です。イエス様は常に神と「喜びの交わり」を為していました。イエス様には神との深い繋がり(愛の絆)があったからこそ、神を最後まで信頼し続けました。神は神の計画である贖いの死をイエスに命じられます。その命令とは、「神から捨てられる」ことです。これは私共が受けるべき「刑罰」です。それを代わりに主が御心として受けて下さったのです。イエス様は「罪と戦い」血を流されました。それでもなお「喜びのゆえ」に御心を行かれたのです。主は私共の「信仰の模範」であられます。

8月11日聖日礼拝

 2019-08-10
「聖 書」
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。
(ヘブライの信徒への手紙 11章1~12節)

説 教 「信仰によって」
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」本日の御言葉はキリスト者にとって馴染みのある耳慣れたものです。しかし、その真意には深いものがあり、なかなかに難解な御言葉でもあります。信仰は「神からの賜物」(エペソ2:9)です。にも拘わらずに、本日の御言葉は語ります。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(11:6)信仰とは神からのギフトなのでしょうか。それとも自分の賜物なのでしょうか。この事は勿論、何度もお語りしてきた如くに、信仰は「神からの賜物」です。本日の御言葉の真意を聴くことに致しましょう。「信仰とは何か」とか、「キリスト教とは何か」という基礎的な知的な部分は随分と丁寧にお語りしてきました。それらの知的な部分を正しく知ることは、大切な事柄です。しかし信仰者として生きる私共は「信仰の深み」を目指していかなくてはなりません。また信仰の本質を知る者へと変わっていかなくてはならないのです。その本質を知る為に、御言葉に聴きましょう。「義人は信仰によって生きる。」(ローマ1:17)「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」(ヘブル11:6)「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)如何でしょうか。「信仰の深み」が伝わるでしょうか。分かりにくいと言う方の為に、例を挙げて語りましょう。丁度、本日の御言葉が具体的な信仰者の名前を挙げて語られていることに倣います。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。どうしてでしょうか。それは信仰の大きな業を為したからでしょうか。今で言うなら「大きな教会」を建て上げたという「業」の持ち主であったからでしょうか。それは決してそうではありません。アブラハムは、ある時期から経済的に豊かになります。それは、エジプトの王から富を与えられた事によります。それは彼が信仰から逸脱した結果、王から与えられたものです。彼にとっては失敗の遺産でした。この結果、甥のロトとの争いが起こり、別れを生む原因になりました。ですから、彼の富は成功談ではないのです。彼のその後の人生は、悉く「彼が自分で何かをしたときは全て失敗」しています。では彼は何故、「信仰の父」なのでしょうか。それは「望んでいる事柄」を確信していたからです。「望んでいる事柄」とは自分の願望ではありません。神から与えられた「約束」(御旨)のことです。「目に見えない事実」のことです。私共は神の御言葉に聴き、その御声(御旨)を生きることを「信仰によって」歩むことを神に求められている民なのです。

8月4日(日)聖日礼拝

 2019-08-03
「聖 書」
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたもキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
(コロサイの信徒への手紙 3章1~11節)

説 教 「上にあるものを求めよ」
8月に入りました。本日は「平和聖日」です。今週からは新たに、私共の教会の50年史でもある「一本の杖」を読み進めていきます。先代牧師の高橋文蔵牧師の「追憶集」でもある本紙は先の大戦も経験してきたものです。しかし、この記念誌には、その暗さが微塵も感じられません。その理由は言わずもがな高橋先生の信仰に寄るところが大でありましょう。その時代が如何なる困難な時代であろうとも、その変わらぬ信仰の熱情と喜びが、本教会を躍進させる熱となり、その歴史もキリストの栄光を現すものとなっていた、その証しこそが歴史の暗さを吹き飛ばしていたものと思われるのです。では、高橋文蔵牧師は何を目指していたのでしょうか。それは本日の御言葉でもある、「上のものを求め」目指していたと思われます。では「上のもの」とは何か。それは神の愛であり、キリストそのものです。先生のキリスト者となってからの人生は自分に死に、キリストに生きる人生そのものでした。その牧師人生をキリストの福音の種を蒔き続け、頑固一徹、伝道者の道を歩み続けられました。牧師として、愛の実践を続ける中で、「伝道者」の道こそを求め続け、歩み抜かれました。であるからこそ、神はキリストを通して、高橋文蔵牧師の働きに栄光を現されたのです。私共はどうでしょうか。自分に死に、キリストの栄光を現す命へと移されているでしょうか。今一度、教会の原点に立ち帰って頂きたいと思うのです。本日の御言葉の大切なところを学んでおきましょう。また、この大切なところを知っておくことは、キリスト者として、長く教会生活を続ける秘訣を知ることです。永遠の命をいただく秘訣でもあります。その「大切なところ」とは何か。それは「上にあるもの」です。どうしてパウロ先生は「神を」とか「神の愛を」求めなさいと言わずに、「上にあるものを」求めなさいと言ったのでしょうか。それは真のキリスト者は真の神こそを神としているからです。自分を神と同等にすること等ありえません。神より自分を「上に」すること等、ありえなのです。真のキリスト者は「神を神とする」民なのです。自分は神の「被造物」なのです。しかし、この被造物である人間は、神の恵みに応答する「人格:神の似姿」として造られました。ですから人が神を忘れ、神を離れ、罪に塗れ、不平と不満と死の人生を人が歩むことを神は我慢できないのです。人は神より自分を上にすることを罪と言います。その罪の結果は死です。本来あるべき喜びの人生を手にすることが、神の最も願われていることなのです。

7月28日聖日礼拝

 2019-07-28
「聖 書」
洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けして取り除いてくださいました。
(コロサイの信徒への手紙 2章12~14節)

説 教 「キリストと共に」
教会には二つの危機があると言われます。一つは内面の危機です。キリスト者となり、喜びのうちに教会に仕えていく中で、教会の奉仕が義務化されていくことです。教会の業が自分を誇る「自己義認」にすり替わってしまうことです。このことは先週の「マルタとマリア」の御言葉を思い出していただければ理解して頂けるでしょう。もう一つの危機は本日の御言葉です。外面の危機です。コロサイの教会は危機に瀕していました。教会の中に偽教師が入り込んだのです。パウロの同労者であったエパフラスから、幽閉先のパウロのもとに手紙が送られ、パウロにも、この危機的状況が伝えられました。パウロは早速手紙を書きました。この書簡です。本書簡を要約して語るならば、「キリストは神性が充満しているお方であり、全宇宙を支配しておられる。キリストに従う者は他宗教の教えに惑わされてはならない。」ということです。偽教師が惑わしていたことは、「ストイケイア」です。「世を支配する霊」のことです。キリストの福音に、キリスト以外のもので「完全」を満たそうとする教えです。パウロは「キリスト」こそが「完全」であり、加えることも引くことも必要ではないと教えました。これは福音の神髄です。この知恵と確信は「キリストと共に」歩む中で得られるものです。パウロは常に「キリストと共に」あり、福音の核ともいえるものを的確にコロサイの人々に伝えることができました。今の私達にも繋がる勧告です。この福音は世に二つとないものです。「キリストと共に」も「同行二人」の意味ではありません。お遍路をする時に持つ金剛杖は弘法大師の化身と言われます。ですから、お遍路の旅が一人であっても「同行二人」と言われるのです。この「同行二人」は弘法大師の化身が外にあり、自分と共に歩むのです。ですから遍路の厳しさは、当然、自分一人が乗り越えるのです。これは仏教の「自力本願」の意味でも正しい在り方です。私共の「キリストと共に」あるは、この考え方とは異にします。「キリストと共に」は私共の心の中にキリストを迎えることが初めに想定されています。私共の心は自分が中心ではありません。自分は洗礼とともに死に、今、私の心の中に生きておられるのは「キリスト」です。私共のいのちは「新生のいのち」を生きています。御国の実現のために働いています。ただただ「御国が来ますように」と祈っています。このいのちは罪の中に死んでいた私達が、十字架の恵みによって贖われ、キリストと共に「同行一人」となり、歩んでいく人生のことなのです。感謝。

7月21日聖日礼拝

 2019-07-19
「聖 書」
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
(ルカによる福音書 10章38~42節)

説 教 「必要なことは一つだけ」
有名な「マルタとマリア」の御言葉です。この御言葉が、余りにも身近な生活の一場面であるので、誰しもが自分の側に引き寄せて、御言葉を解釈しがちになります。しかし深い真理を示されるまで、祈りながら御言葉を読み、御声が聴こえるのを待つことは、どの御言葉も同じです。本日の御言葉を読むときに、私は「マルタ派」か「マリア派」かと考えることがあるでしょう。しかしそれは思い違いです。以前の説教で語った如く、誰しもがマルタとマリアの両面を持ち合わせています。(2013.7.21参照)では私達は本日の御言葉から何を聴くのでしょうか。それは「あなたにとって必要なことは一つだけ」であるという真理です。色々な思い煩いから解き放たれて、「イエス様の処に来る」ことが必要なことなのです。本日の御言葉は処世術や人間関係を学ぶところではありません。マルタは、いろいろのもてなしのため「せわしく立ち働いていた」と御言葉は語ります。この言葉は「ペリスパオー」で「あるべき中心から引き離され、周囲の雑事に心が散り散りになった状態」の意味です。マルタの行為は正しいものです。非難されるものではありません。ただ心が「中心から離れて」いたのです。ですからマルタに対するイエス様の応答は、マルタを救いに導く「御声」でありました。本日の御言葉の主人公はマルタなのです。マルタが、中心であるイエス様の処へ帰ることができたということが本旨なのです。私共は、この大切さを聴く者でなくてはなりません。私は先日、懐かしい方の説教を聞きました。ポール・リース先生です。思いがけない所からCDが出てきたのです。ヨハネの黙示録の「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」の解き明かしでした。素晴らしい説教でしたが、本日の御言葉と通底しています。主はマルタに諭しを与えるだけではなく、救いを与えられました。主はマルタに「マリアは良い方を選んだ」と言われました。そして「それを取り上げてはならない」とも言われたのです。取り上げてはならないものは何でしょうか。イエス様の話を聞くことでしょうか。それともイエス様の処(人の魂の中心)へ行くことでしょうか。これは勿論、イエス様の処へ行くことです。この所を見事に表現した絵画があります。フェルメールの「マリアとマルタの家のキリスト」です。イエス様だけ「影がなく」マルタとイエス様の真ん中に白いテーブルが光っています。マルタの救いを表しているかのようです。本日の御言葉は、マルタがイエス様を迎えたから始まっています。これが答えだったのです。
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