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10月13日聖日礼拝

 2019-10-11
「聖 書」
イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」
(テモテへの手紙二  2章8~13節)

説 教 「キリストと共に生きる」
パウロは最期を迎えることを覚悟しつつ、囚われの身でありながら感謝の内に過ごしています。それは何故かというと、パウロは愛する者たちのことを思い、主のことを思い起こしながら「キリストと常に共にある」ことに感謝を捧げているからです。パウロは最期を迎えるにあたり、愛する者に「主イエス」を遺さなくてはなりません。「福音」を遺さなくてはなりません。それは具体的に、どのようなことを為すことなのでしょうか。教会にとっても大切な信仰の継承を考える上にも、本日の御言葉は大切なものです。今、私は「信仰の継承」と言いましたが、「信仰の継承」とは本当は如何なることなのかも併せて御言葉に聴くことに致しましょう。信仰の継承は「わたし」や「あなた」を残すことではありません。信仰の継承は「キリスト」を残すことです。信仰はピスティスですが、信仰というよりは、「信実」「真実」「誠実」「忠実」「信頼」「確実」と解する言葉です。本日の御言葉をご覧下さい。次の言葉は「真実」です、や、わたしたちが「誠実」でなくても、キリストは常に「真実」であられる、の鍵括弧の中の言葉はすべて「ピスティス」です。キリスト者の「信仰」を見事に表しています。「私たちが誠実でなくても」は(直接・現在・能動)ですから、「私たちが(信仰に)不真実でありつづけても」の意味です。私たちの信仰は私たちのものではありません。私たちの信仰は聖霊の働きであり、「神の恵み」なのです。前節に「その信仰はまず祖母、母に宿り」(1:5)と記されてあります。「宿り」はエノイケオーであり、「住み込む」の意味です。つまり信仰は聖霊を魂に「住み込む」神の恵みのことです。この恵みは、パウロがテモテに「あなたにも宿っていると確信している」と語ったように、信仰は継承されていくものです。それは唯々「恵み」によるのです。私たちの信仰は福音です。その福音を宣べ伝えていくうえで、明らかにしておかなくてはならないことがあります。それは「何を」「誰が」「どのように」です。この答えを一文で答えるならば、「ゆだねられた正しい「御言葉」(信仰)を、正しく受け取ることができる信仰者(貧しい者)に、イエス・キリストと共に生きることを通して、福音を伝えていく」となります。「イエス」を遺し、「福音」を遺し、「信仰」を残すことは、言葉ではなく、聖霊の働きを通して、「キリストと共に生きる」内なる喜びを通して、キリストを伝承していくのです。(証し人のビデオ視聴)私共もまたパウロと同様に、愛する者に主キリストを遺す者となりましょう。

10月6日聖日礼拝

 2019-10-05
「聖 書」
神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。
(テモテへの手紙二 1章6~14節)

説 教 「信仰と愛をもって」
先週は「召天者合同礼拝」ならびに「墓前礼拝」を執り行いました。私共にも人生の最期が訪れます。私共は先に召された先達から何を見聞きし、何を残されたのでしょうか。また必ず世を去る時が訪れる私共も、世に残る人々に何を残していくのでしょうか。キリスト者が最後に「残していくもの」について、10月は何回かに亘り、「御言葉」に聴いてまいります。さて本日の御言葉は、「テモテへの手紙二」です。パウロの「殉教」が差し迫る中で、愛弟子テモテに送られた手紙です。(真正の手紙ではないが、パウロの真正の言葉も含まる「パウロの名が冠された」手紙です。)パウロは自分の最期を自覚しています。パウロは「愛する者」に最後に何を残すのでしょうか。パウロは本日の御言葉で語っています。「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。」「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」これは遺訓です。私共の高橋文蔵牧師も最期に言葉を残されました。「ありがとう‼ありがとう‼」この言葉を先代牧師である高橋初生牧師は、「初生‼後は頼んだヨ、しっかりやっておくれヨ」「永い間お世話になりました。どうか信仰をもって、神さまに従って下さいヨ。有難う。有難う」と受け取りました。この受け取りは正しいものでありましょう。本日の御言葉ではありませんが、ハバクク書に「神に従う人は信仰によって生きる」という御言葉があります。「によって」は「エク」であり、(~外へ)の意味です。つまりこの御言葉の意味は「神に従う人」は「信仰を外へ出す(証しする)」ことによって永遠に生きるという意になります。文蔵牧師も信仰を外へ出す「証し人」であったからこそ、最期の短い言葉に全ての意を伝えることができたのです。私共は「その」信仰を引き継いでいるのです。「その」信仰とは、パウロが語る「ゆだねられている良いもの」のことです。これは主イエスから与えられます。「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、」とパウロは教えています。ここで用いられる前置詞は「エン」です。「中にある」の意です。ですからこのところを直訳すると、「キリスト・イエスの中にある信仰と愛によって与えられる信仰と愛をもって、」となります。パウロは人生の最期を自分を語らずに、イエスの愛を遺したのです。信仰者はイエスを遺すのです。それは残された人に力となり「おくびょうな霊」に打ち勝つ神秘を与えることになるのです。ハレルヤ。

9月29日聖日礼拝

 2019-09-28
「聖 書」
しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。
(テモテへの手紙一  6章11~16節)

説 教 「掟を守りなさい」
テモテはパウロからの「手紙の結び」において、「神の人よ」と呼びかけられている。そして「異なる教え」に対するために、「この掟を守りなさい。」と最後に勧められた。では「この掟」とは何を指すのだろうか。前後の文章を読むだけでは「不明」である。この「掟」が何を指すのかは、今回もコンテキスト(文脈・背景)を読み解く必要がある。パウロがテモテを最後に「神の人よ」と呼びかけたのは、「これらのことを避けなさい」にかかる前節の「世の人」に比した言葉である。「世の人」とは「真理に背を向け、信心を利得の道と考える人」のことである。教会には外側から、内側から敵(サタン)が忍び込んで来る。パウロがテモテに告げた教えは現代の教会に生きる私達にも敵に抗するために有効な手立てである。では敵(サタン)に抗するために勧められた最後の言葉「この掟を守りなさい」とは如何なることか。それは「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すこと」(1:5)であり、「信仰と正しい良心とを持って、(敵に抗して)雄々しく戦うこと」(1:19)である。その思いを込めて、パウロは「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」「信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい」「永遠の命を手に入れなさい」と最後に勧めたのである。本日は「召天者合同記念礼拝」でもある。このパウロが語る意味について、本教会の先達の「証し」から聞くことにしよう。「私は身体弱くてよく病気で床に着きましたが、そんな時先生は飛んできて下さり、熱烈なる祈りで病気の癒しを神にお祈り下さいました。そんな事が何度も何度もありました。其の先生のあの輝かしい清らかなお顔は、神にも似て終生忘れる事が出来ません。」(武田ウタ姉)「この世に生かされてある限り主の僕としての証が立つ日々を過し、祈りつつ行き度いと思っております。主の恵み、汝にたれり、ハレルヤ。」(九重谷睦子姉)如何でしょうか。パウロの勧告に通底する「証し」です。この意味を一言で述べるならば、「敵に惑わされずに、自らの信仰を保ち、初めの愛に留まれ」ということです。ヨハネの黙示録において、「エフェソの教会」に向けた言葉があります。それは、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」です。主イエスからの勧告であるこの言葉は逆に解せば、「初めの愛に帰れ」でありましょう。これは「ファーストラブ」の意ではなく、質的な意味です。私共に「狼」が襲って来ようとも、純真な信仰、神の愛に留まる「掟」を守る時に、すべての事は守られ、益とされるのです。

9月22日聖日礼拝

 2019-09-21
「聖 書」
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。
(テモテへの手紙一  2章1~8節)

説 教 「すべての人々のために」
私共は今、連続でキリスト者の「証し」について御言葉に聴いています。何故キリスト者は「証し」を為すのでしょうか。証しは必要なことなのでしょうか。その答えについては、本日の御言葉が教えています。「証し」の基本は「祈り」です。ですからパウロは、「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」と教えています。「証し」とは他者を愛する愛のことと捉えても良いでしょう。しかし「証し」は他者だけではなく自分をも救いうる業でもあります。そのことについては、後節のパウロがテモテに対して勧める言葉、「自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。」(4:16)から教えられます。「証し」とは「救いの実と種」でもあるのです。それにしてもパウロは今、キリスト者に対して迫害している敵や皇帝(王)に対しても「祈りなさい(愛しなさい)」と勧めています。何故なのでしょうか。それはやはり、本日パウロが語る「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」に帰結するでしょう。しかし「証し」が言葉だけの偽善になることを神は望んでおられません。自分の弱さを、ありのままに知り尽くしておられる神に全てを委ねながら「証し」の生涯を歩んで行くことこそ、神の望まれていることです。パウロも信仰者の先達もすべて同じ道を行かれました。近年、天に召されたノートルダム女子大の渡辺和子先生が「生き方が自らの証しになる」「信仰は、持つものではなくて、生きるもの」と普段から語っておられた言葉もまた、偽善的な生き方ではなく「真摯に神に向き合う」「自分の弱さと罪に向き合う」中から自然と神に示される命を生きることのことを言われていたように思います。週報にお載せした五十嵐氏の父は「白洋舍」の創業者である五十嵐健治氏です。五十嵐氏は三浦綾子先生にキリスト教を伝えた信徒としても有名です。詳しくは「夕あり朝あり」に記されています。五十嵐氏もまた、「証し」の生涯を歩まれた人です。「白洋舍」はクリーニング業界のトップですが、その道程は波乱万丈でした。しかし現在の祝福を得たのは五十嵐氏の「証し」に負うところ大でありましょう。五十嵐氏は、どんな困難も神の御旨と受け止め、神を信頼して歩み抜かれたのです。彼は言います。「人の愛がわかるのは、様々な経験を必要とする」私共も又「愛」をすべての人々に届けるために「証し」の道を歩むのです。

9月15日聖日礼拝

 2019-09-14
「聖 書」
以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
(テモテへの手紙一 1章12~17節)

説 教 「限りない忍耐」
先週の礼拝にて「フィレモンへの手紙」を解き明かししました。その手紙にてパウロに執り成しをしてもらった青年が奴隷オネシモでした。彼はキリスト者となり、信仰者として成長し、エフェソの教会の監督になりました。その時のエフェソの教会の司祭がテモテでした。テモテは良い家庭に恵まれ、優等生の人生を歩んだと言っても良いでしょう。その彼は今、牧会の荒波にさらされています。パウロはテモテに手紙を書くことにしました。本日の手紙です。牧会書簡とも呼ばれます。牧会の具体的な手引きが記されています。では信徒には関わりのない御言葉なのかと言いますと、それはそうではありません。教会のあるべき姿を知るうえで、大切な御言葉だからです。それにしても、オネシモ然り、テモテ然り、何故に彼らはパウロを師と仰ぎ、尊敬しているのでしょう。パウロは今、獄中にいて栄光の姿ではないというのに。本日は彼らが師と仰ぐパウロの姿に学びつつ、御言葉の光に照らされたいと願います。本日の手紙の趣旨は牧会者テモテに対して、「異なる教えについての警告」が主なことです。この手紙の結びが、「テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵みがあなたがたと共にあるように。」となっていることからも理解できます。教会には「異なる教え」(知識)が入り込んでくるのです。それはサタンの働きであるとパウロはテモテに告げます。(1:20)ではサタンに勝利する方法はないのでしょうか。それはあります。本日の御言葉が語る、「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実です。」に信を置くことです。パウロ自身がこの言葉に信を置く者でした。パウロは自らを「罪人の中で最たる者」と自覚しています。これはキリストの光を受けた者の全てが経験する魂の自覚です。健全な信仰の状態です。パウロは、その罪人なる「私」に、主は「限りない忍耐」をお示しになったと証言しています。この「限りない忍耐」とは何か。それはやはりキリスト者となり、救いの身にありながらも、罪に陥り、サタンの誘惑にさらされ続ける者にに対して、「限りなく赦す愛」を持って、臨まれる主の愛のことでありましょう。主は罪人を救うために世に来られました。そして、罪人を救い、愛し、信頼をして下さいます。「忠実な者と見なして下さる」(1:12)主に信頼を置き、純真な信仰を土台として「愛」を目指して参りましょう。
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